おにぎりの具を取り出す作業

中身があることを願って

東浩​紀 川上量生対談を振り返る

他の場所で全6回に分けて投稿したものを、ひとまとめにした記事です。長いですがやっと終わりました。
ニコニコ生放送にて対談が行われた東浩紀氏とドワンゴ川上会長との対談についての自分なりのまとめです。これからのコンテンツビジネスの少し先を考えるきっかけになる対談でした。2011年9月の対談ですが、震災後半年、一般意志2.0出版前というタイミングでのイベントです。
この対談も収録された以下の本もオススメです。

ニコ生思想地図「『おもしろい​』をセカイに広めるには」東浩​紀×川上量生
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15580519

公式まとめはこちら
http://news.nicovideo.jp/watch/nw112807

放送当時は劇場公開直後の「コクリコ坂から」の感想から始まります。
抗議や社会運動のような行動を結果あるものにするためには、女性のパワーを取り込むと爆発するor成功しやすい。(メルちゃんと呼ばれる女性主人公が、古くなった高校の寮の保存運動に加わる事で活動が劇的に進むことから)
そこから派生して、ドワンゴ会長であらせられる所の川上会長が「ニコニコ動画もターゲットは女性、でも女性を入れると男は怒る。」とぼやく。ネット上では発言力はもの凄いあるけれど、リアルな人数としては100万人いないくらいの人々を「ネット原住民」という言葉を使って表現していた かわんご氏の言動と重なりますが、その怒る人々は東浩紀さんの言う「ハイコンテクスト過ぎるネタを使った遊び」をしている場に、女が入ってくることでその場が壊されてしまう事を嫌う。という。

一般化するとそういう考えに至るのかもしれませんが、おそらく女性が入ることでそのハイコンテクスト化が、やおいであるとかBL、擬人化、カップリングにより加速する場面もあるのでは?と思いました。もちろんそれは多くの怒れる男性が楽しめないネタに変換される事により、異次元のネタへと料理されてしまうので、同じハイコンテクスト空間に居ながら分かり合えないという断絶を生んでいるのだと思います。

そこでそのネットカルチャーの最先端にあるニコニコ動画がこれからどうなっていくのかを川上会長に聞くと、むしろそれは東さんに教えてほしいと逆に質問を投げ返す。

川上会長の「同じハイコンテクストの講談速記本の文化が潰えてしまったのはなぜか?」という問に対して、
「ハイコンテクスト化が行き過ぎると、内輪での遊びになってしまい、複雑になったものを理解できない新規さんがいなくなる。そしてその文化は崩壊する。オタク文化も同じ道を辿るのではないか?」という答え。
とは言っても東浩紀氏はオタク文化自体は滅びても問題無いけれど、話の流れで後世に伝えるにはどうしたら良いかといった立場に立って話してくれる。

東さんは宇野さん主張として「コンテクストを豊かにすることでつまらないものを面白くする事ができる。そのことによってつまらない日常を乗り切るんだ」と言っている と説明。
しかしそれだと何も残らない。 何かを残そうとするとコンテクストを剥奪しても残る物でなければならないことを考えると、 複雑な文脈で消費する事が豊かであると信じるその空間から、外に出た時にも単純に評価される物になってしまう。

講談速記本については資料があまりないので詳しく語れないが、江戸時代では「この作家がこの役者の演じるこのキャラクターの絵」というものすごい複雑な楽しみ方を浮世絵でしていたと例にして話をすすめる。庶民の中では歌川豊国が一番(うろ覚えらしい)だったが現在浮世絵で出てくる名前は写楽。写楽は外国人が発掘してナンバーワンのようになったが、外国人たちは江戸時代の庶民のような楽しみ方はせず、単純にその大首絵の画面の使い方と色合いを評価した。
「作品や文化が残るということは、コンテクストから切断されて物だけが残るということ。コンテクストというのは時代の空気や社会に支配されている。」

しかし複雑化しすぎた事による崩壊はもう始まっているのかもしれない。しかもなぜか内部から。

アニメオタクの教養とか知識とか経験とか http://togetter.com/li/175173:title=http://togetter.com/li/175173

ハイコンテクスト、つまり複雑な要素・ネタがからみ合って実はこの作品のあのシーンのあのキャラのセリフをパロっていてとか、あのキャラの造形はあの小説から来ていてとか、別の作品の声優さんのネタからきていて・・・みたいな物は普通に楽しんできたのですが、それが通用しなかったことがちょっと心に引っかかっているので吐き出させて頂きますと、コードギアスというロボットアニメがありまして、そこで紅蓮弐式という機体から紅蓮可翔式という機体に乗り換えるシーンがあるのですが、そのシーンがどう見てもダンバインという同じロボットアニメのダンバインという機体からビルバインという機体に乗り換える、リアルロボット系アニメにおける主人公機体の乗り換えという歴史的シーン(ボトムズの話置いておいて)そのまんまなんですよ。
そしてコードギアスを見ていた時期にはTwitterなんてものはやっていなかったので、実況板の該当のスレッドを見て「これダンバインじゃーん」と書き込むわけですが一切反応がない。アレ?誰もわからないのかな・・・若しくは記憶違いなのかな・・・みたいな不安に陥っていよいよアニメ板まで行って専用スレで書き込むと、3分後くらいに「>>おっさんかよ」という レスが付きまして凄く喜びました。「分かるよねお前もおっさんだよね」と返す喜び。(といっても再放送世代なのですが)
つまり何が言いたいかと言いますと、複雑であれば複雑であるほど、それが分かる仲間意識というのが芽生えて快感を感じてしまう。そしてその快感を味わっている集団の中に女性が現れてドヤドヤと踏み荒らすことそれを「怒っている」と表現していたんだなぁと、そう理解できたんです。


川上会長:
ニコニコ動画を作った事は日本にとって悪い方向になっているのではないかと不安であった、インターネットに何時間も滞在していて日本のGDPに貢献していない日本人を作ってしまっているのではないかという事で。
しかしそもそもインターネットに何時間も居るユーザは今までもそうだった。そういったユーザのエネルギーがクリエイティビティに向かい、世界にニコ動文化のファンを増やす力になっているかもしれない、良かったと思うようにしている。
そのエネルギーの誘導路が色々あって選択肢が多ければよいが、少ないために花王不買運動やデモに行ってしまうのが良くない。

Youtube以降、雨後の筍のようにポンポコと動画共有サイトが生まれ、Youtube一人勝ちだろうなと思ったところで、ニコ動はユーザ登録が順番待ちになるほどに流行っていたので参加したわけですが、それがまさかここまで大きくなるとは思いませんでした。私のような、ほぼ見る専門のクリエティブな方向にエネルギーを使うことをしなかったユーザさえも、「コメント」という方法で参加させた仕組みは本当に凄いと改めて思いました。


コクリコ坂からからの話題が続き
東浩紀氏:
カルチェラタン保存運動問題は運動部の人々はまったく関心がなかったけれど、全校の数%の文化部の人たちだけが騒いでいただけだった。それと同じように、東大の駒場寮が文化の象徴ということになっていて取り壊しの問題の時には大問題になったという話だったが、ほとんどの東大生は関心が無くて実際に在学中だったのに後で新聞で知ったという事がある。

 ここでハイコンテクストな小さな世界での大きな問題が、すごく近くに居る人々にさえ届いていなくて、わざわざメディアを通して伝わるという狭さを説明しているのかな。


東浩紀氏:
ハイコンテクストなものに関心が持てなくなっている、それができるのはインフラを作っている人がいるから。問題として複雑な文脈を持ったものが出てくるインフラを作る方法である。そしてそれを持続可能な物にするにはどうすればよいか?またニコ動はどのくらい続くと思うか?

この疑問に大して川上会長が「それは知りたいと思っているし、研究したい。データがあるので、もし研究をしてくれるならデータは出す。ドワンゴにはアカデミックな社員がいないので」という事を言っている。あーこれがニコニコ学会βの誕生に繋がっている考えなのかなぁと思った。タイミング的にニコニコ学会第一回シンポジウムが2011年12月6日なので。

東浩紀氏:
文化的なものを軽量化するようなフレームワークをまだ人類は持っていない。マーケティング分析はあるんだけれど、質をもっと軽量化出来ると思う。例えば純文学とライトノベルの違いというのは、今のところレーベル・出版社が違うというだけ。内容というと直感的に見て判断しているだけ。
しかし文章レベルですべてデータとして読み込んで形態素解析をかけてどういう形容詞と副詞のバリエーション、1センテンスの長さなどをデータとして比較する事で、実はどちらも漢字と平仮名の比率は同じだったりとかがわかったりするのではないか。批評家はそれを頭の中で感覚的にやっている。

それを受けて川上会長:
コンテンツの中身の分類でなく、流通経路で判断できると思う。広告の出稿にTVのどの時間帯にいくつ出す、新聞に出す、雑誌に出すといったところで、特定のクラスタに対して認知度を100%にしようとしている。その後は作品の質でヒットするかが決まる。良いコンテンツでありながらヒットしないのは認知度が足りない場合。

東浩紀氏:
流通経路の分析もできると思うが、最終的にはコンテンツの中身の分析と組合わさる必要がある。こういった作品はこういった流通経路でヒットしやすいというのは相関関係がある。高校生にライトノベルが受けているのは、たまたま彼らにそれが与えられているだけで、コミュニケーションの性質が、コンテンツの中身の性質を規定しているはず。今までなんとなく分かる という状況だったものが、それがわかった時に文化分析は飛躍するはず。

川上会長:
その分析に参考になるのはソーシャルゲームのマーケティング。あるキャラクターを使ってソーシャルゲームを作るときに、怪盗ロワイヤル型だとか牧場型だとかある程度決まった方に当てはめて設計すると、売上高・ARPUはどれくらい・どのくらいの期間稼げるだとか全部計算できると言ってマーケティングしている。
それと同じ事を昔アーケードゲームでやっていた。一つヒットが生まれたら類似製品でロケテストをやってどのくらい稼ぐかを予想していた。それをやったことでジャンル自体が衰退してしまった。 純文学とライトノベルも飽和してコアユーザーだけが残るという同じ状況。おそらくソーシャルゲームもこの2,3年くらいで飽和してしまう。
しかしソーシャルゲームはそういったマーケティングのデータが豊富にあるので定量的に分析をするのであれば良い対象になるのではないか。

東浩紀氏:
しかし、なぜテキストに僕がこだわるかというと、1次元のデータだから計量化しやすいはず。ベストセラーのひらがなと漢字の比率を調べるだけでも面白いことが分かるはず。なぜやらないんだろう。ゲームのほうが複雑に思えるのだけれど。

川上会長:
それはゲームはバリエーションが少ない。テキストは自由度が高すぎる。囲碁と将棋を比べるとわかりやすいが、将棋は王将とか金で分類ができているが、囲碁はものすごく自由度が高い。

東浩紀氏:
「テーマの面白いを世界に広めるには」の答えを簡単に言うと、ローコンテクストだと広まりやすい、ハイコンテクストだと広まり難いということに落ち着きそう。

お二人の考えの違いが明確に出る話で大変面白く見ました。
そこで思い出したのですが、おそらくこの放送を聞いていただから思いついたけれどすっかり忘れていたアイデアで。いや、もうひとつ小池一夫さんのニコ生の番組の発想もあるかもしれないですが。
何か物語を作るときに、今まで読んだ物語が頭の中で再構成、発展させる事での創作という事をされている事が多いと思いますが、それをシステム的に補助するようなWEBサービスがあると素晴らしいのではないかと思いました。
例えばこんな。
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こんなので、作品のタグ付が大変だと思うのでそれはCGM的にユーザーの手を借りてタグ付をしてもらってガンガン登録してもらう。登録する人々は無料で使えるなり、登録した量に応じて評価されるとか、マネーが還元されるといった仕組みをつけて促進させる。若しくは読書メーターとかブクログとかと提携して、感想と一緒にタグ付けしたデータをもらえる契約をするとか。
タグ登録をしていれば無料で使えるけれど、検索システムだけ使う場合は有料にする。プレミアム会員ユーザは作品の表示だけでなくて作品の概略と、ストーリーの肝部分まで見えたりとか。
しかし川上会長が言うように、こんなものから生まれたものはつまらない作品になるという懸念はありますね。

震災から半年の段階で台風が来てまた100人くらいの犠牲が出た、日本という場所が人間が安心して暮らすためにはものすごいコストがかかる、震度7とかの地震を耐えるような建設コストをかけなければいけなかったり、世界的に見ると物凄いハンデを負っているのではないかという話題。

川上会長:でもヨーロッパ半島は痩せた土地で、ローマ時代に森林を焼き払われて資源が乏しくて、小さな国がたくさん争っていて、そんな国でも栄えたのはどうしてか?

東浩紀氏:梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」のなかでの、ユーラシア大陸の西の辺境と東の辺境だけが結局勝ったという説。次に「文明としてのイエ社会」で語られる、東日本と西日本は基本的に別の国で、
・東日本   と   西日本
・西ヨーロッパと東ヨーロッパ  の対立が重なっている。
西日本と東ヨーロッパの農業形態や社会の構造がある程度似ている。そのさらに辺境として出てきた西ヨーロッパ=東日本は資本主義に対して最も適合性が高かったという説がある。しかしグローバル化が進むと辺境は結局辺境にすぎない問題が出てきた。例えば成田空港はハブ空港には絶対になり得ないといった話など。


一旦話を区切り、日本はこれからどうなっていくのか?
川上会長:
日本語って変じゃないですか、論理的じゃないし。その非論理的言語で非論理的な事を喋っている大量の人たちが、(世界と)違うモノが出てくると思う。その違うモノの生み出す競争力というその一点に賭けるしかないかもしれない。
東浩紀氏:
それって神風みたいなものじゃない?こいつギリギリまで来てる感あるよね。地震とか来るけどイケルーッ!みたいな。こんな時こそクルッ!みたいな。
―― 日本の建国のところまで遡ると、日本て地理的に辺境にあって、黒潮や半島からのルートで人がよく流れこんでくる場所で、色々な人種と混血を繰り返した結果日本人になったとよく言われる話で、日本は危機が何度かあって大化の改新とか天地天武朝の頃と、明治維新の頃で、両方共外国からある種破廉恥なまでに制度などを受け入れて、外国人を大量に入れて国の形をガラッとかえて凌いでいる。
この国の最も強い伝統は破廉恥に身を開くことだと思う。自分たちの伝統を大切にしないという伝統を持っている国だと思う。生き残るためにはそうしなければならなかったし、それによってダイナミズムを確保してきた。今回の地震がどのくらいの危機かわからないけれど、身を開くということを考えてみても良いかと思う。日本という国をコントロールしている部分を緩めるということ。
新羅と唐が連合軍を組んで百済を滅ぼした時に王族とかが逃げこんでくる、日本はそういう逃げこんでくる土地、難民とかが来る国。日本でなぜオタク文化が栄えるかというと、日本て凄く脱落している奴にやさしい国で、日本という国そのものが脱落しているというか脱落国家なわけで、二流の脱落した外国人がやってきて文化を生み出していくというような事が歴史的に繰り返されてきた国なんじゃないかなと。

川上会長:
そのダメな人達がいっぱいいるネットが日本を変える唯一の可能性だと思う。

東浩紀氏:
しかし、そのダメな人達が自分たちだけのダメな王国を作りました。以上誰も入らないでください。 とこれじゃダメ。

川上会長:
しかし、日本のリアルな世界では外に出て行かないとか言っているが、ネットのMMOや2ちゃんねるとかでは韓国人とやりあったりとか4chanと交流したりだとかしている。実はクローズなネットの深部で交流をしている。

東浩紀氏:
しかし、ネットの別の閉鎖的な一派が居るわけで、そっちの方向に行ってしまってはいけない。
サブカルチャーの交流をしている韓国や中国がボーカロイドなどを作ったり当然してきて、日本のオタク文化にキャッチアップしてきた時に閉鎖的になってしまう事が考えられる。日本のオタク文化はアキバやコミケなどあるから比較優位を持っていて、そこで評価されたいという外国人は多いと思う。そういう人達に対して「みんなおいでよ」と言えれば良いが、こっちから攻めて行くのは、こっちに来られたら困るみたいなのはいけない。

川上会長:
でもニコニコ動画もネットの文化の海外発信とかしていかなければならないのではないかという世界的な指名を感じているが、台湾ニコニコ動画を作ったが、台湾人は日本ニコニコ動画に来てしまう。だれも台湾ニコ動にアクセスしない。だから、僕らはそのまま受け入れればいいんじゃないかと感じている。

東浩紀氏:
今この国を規定しているのは、開国か攘夷かというイデオロギーの対立だと思う。原発の対応なども見ても外交がとても弱い。この国はいつの間にか国民の感情だけでなく、国全体が内向きになっていて。攘夷、外国人出て行けという感情も出てきている感じがするが、こっちに振れてしまうと良くない。
江戸から明示の時に良かったのは、明治維新の時、倒幕派は最初は攘夷であった。既存政権は開国しようとか言っていたところを、そんな事言ってたら駄目だ攘夷だよ攘夷!とポピュリズムを共にしてぶっ潰したけれど、その後に「いや開国ですから」と開き直った。そういう事をやっていくしか無いと思う。

というお話からネットの国境、GoogleやAmazonなどグローバル企業のルールについての話に繋がります。
今回のオタク文化に中韓がキャッチアップしてきた時に受け入れられるか問題については、韓国人漫画家が日本で活躍していたりとか、ネトゲのキャラデザイナーの画集が売れまくったりと、単純に興味の段階でやっていれば良いんだけれど、なぜだかその人の漫画もキャラも知らない人たちがニュースを見て、外から叩き始めると荒れるのは、最初のほうで書いた「怒る人々」と呼ばれる閉鎖的でありながらネットでの存在感が強い人々が出てきた時じゃないかと思います。
彼らは今回語られた「攘夷」という感情そのもののように思えますが、原動力は一体何なんでしょうかね・・・韓国ドラマのゴリ押しがどうのってのは確かに納得できる情報が出ているからわからないでも無いですが、ただ別の国の作家というだけで拒否反応を起こすのはなんとも理解に苦しみます。


川上会長:
明治になり、開国をしたが日本国土を守ろうとした。今はアメリカの圧力が強いから放っておいても開国はせざるを得ない。だからどうやって鎖国をするかを考えたほうが良い。インターネットはフラットに世界とつながるのは一見理想主義に見えるが、大多数の人々にとっては不幸せになる。だから中国のグレートウォールなどを見習ってネット上に国境を作ることを考えるべき。世界がみんな同じになったらつまらない。

東浩紀氏:
世界が一緒になったらつまらないのは確かにそう、日本でガラパゴス的サブカルチャーが生まれているのは日本語という複雑な言語が障壁になっている為。しかし・・・これから鎖国を長期的に?

川上会長:
鎖国という表現は大げさだが、ネットの国境は作るべき、なぜか?
外国企業は日本の法律を守らずに日本でサービスをしている。(例としてニコ動は権利侵害している動画を自主的にパトロールして削除する必要があるが、Youtubeは言われたら消すというだけでよい。)ルールが違う戦いをしている。
国という形を意地したいのなら、ネット上のルールも国ごとに分けるべき。

東浩紀氏:
ネット上に国を作るのは難しい、国は各人の身体の安全と所有権を守るためにある。物理的なもの。しかし、ネットの情報として形がなくなった時に、地理的に紐付けられている境界(国境)は存在意義が無くなると思う。

川上会長:
ネットにおいて国という概念が成立しにくいのはその通りかもしれない、しかし経済活動で見ると、Amazonは分野によっては既に小売トップ。これからも比率はあがる。国の物流の大半部分を外国ネット企業が支配する、国の経済活動のかなりを日本の法律が及びにくいところにコントロールされる、それは国家が崩壊するのと同じではないか?その大変な事をみんな理解して受け入れているのか。

東浩紀氏:
考えずに受け入れている人が大半であると思う。
例えば自国の文化保護の為に、国産番組に一定の時間を割り当てるだとかやっている国もあるが、それも国が放送免許を割り当てていたから出来ていた事で、インターネットがつながればハリウッド映画を見てしまうだろうし、それをコントロールするのは難しい。
保護を考えるなら、自分たちの国で作っているものは質が低くても受け入れろという事?

川上会長:
そうではなく、ネット上のルールについて、日本ではクーリングオフであるとか日本独自のネット通販ルールを作ろうとしても現実問題難しい。これからのネットルールは国ではなくてAmazonやGoogleが決めるようになる。青少年育成条例についても、Googleがアダルトを検索エンジンから排除するほうがよっぽどクリーンになる。それだけネット企業の影響力がある。

東浩紀氏:
それはこれからの政治がどういうものになるかという話だと思うけれど、国民国家単位の政治は縮小している。僕たちは多国籍企業にかなり支配されているが、それら企業の方針が世界の人々に影響を与えていて、表現さえも変えてしまう現実がある。多国籍企業をコントロールする事を考えると、もともと企業は政治的に選ばれたものではないので、米国企業でも米国市民が支配するのにも非常に遠回りになる。どの国に企業があるのかという問題ではなく、ここで厄介なのは、国家はある意味ではトータルパッケージサービスという一人の人間の生活の全部を面倒見るものだった。
多国籍企業はこの人のパソコン部門を支配、ファーストフード部門を支配 などのように全体の面倒はみないので権力の仕組みが違う。
世界中に散らばった市民のそれぞれの生活の一部を国境を超えて支配している多国籍企業に対して、グローバルな市民がどういうふうに影響力を行使していくか? という別の問題がある、これは国民国家の問題と切り離したほうが良い。

>何故切り離したほうが良いか?
本質的に関係がない。例えばAmazon米国にあったからといって、米国市民がAmazonをコントロールし、それによって日本市民をコントロールしているわけではない。

川上会長:
でも政府はやっていますよね?例えば米国でGmailの内容をCIAは全部見ても構わないというような法律があったりする。日本は出来ない。
様々な国があるが、多国籍企業、特にネット企業に対してどういう影響力を行使しうるのかという事は、少なくとも国民国家としてのテーマになるので日本も考えなくてはいけない。
ネットをコントロールすることを積極的にやれと言っているわけではなく、僕はゲーマーなので日本という国家を運営するゲームとして考えると、ネットを支配するのはゲーマーとしては正しい。米国や中国はこのネット時代にどのようにゲームをすれば良いのかはわかっている、日本はわかっていない。正しいかどうかは別にして。

東浩紀氏:
Googleのようなものを世界の市民がどのようにコントロールするかは、国民国家ではなく別のルートを考えなきゃいけないのかなと考えてしまう。Googleに支配されて良いとは思ってはいないが。 今までの仕組みとは別種に現れた公共機関みたいなものなので。

川上会長:
しかし、「国民を支配する国家」vs「消費者を支配する多国籍企業」という視点ではライバル。

東浩紀氏:
僕は範囲を分ければ良いだけだと思う。究極的には国家というのは国民生活の最低限ラインを守る、元々の国家のあり方に戻るべきだと思う。昔は夜警国家というか人が殺し合うトラブルを抑止する暴力装置でしかなかったが、19世紀~20世紀に国家のあり方がやたらと広がって、健康増進したり産業育成したり・・・それに必要だから国民調査とかやるとか、国家が人々をコントロールする領域が巨大になっていった。
>でも徴税権は最後まで守ろうとしましたよね。(Googleが世界で稼ぐマネーをアメリカ一国で徴税している兼ね合いでのツッコミ)
なぜ徴税権を守るかというと暴力装置の意地にカネがかかるから。

第一次大戦以前はパスポートが必要なかったという話を聞いたことがあるけれど、昔の国というのは結構いい加減なもので、ある地理的範囲に住んでいる人のトラブルを治める為に、金をまきあげる、みかじめ料をとっていた。住みたくなければ出てって良いけど住んでいる間は金を払えよという仕組み。その原則に戻ったほうが良い気がする。そうすればみかじめ料さえ払えば、どこで金を稼ごうが、国家にとっては関係ないという話になる。

川上会長:
ネットのみかじめ料はどうします?ネットの経済における国ごとの徴税権の配分も大事な問題ですよね。GoogleやAmazonがどこに税金を払うか?単純に大きな政府・小さな政府でとらえられる話じゃなくて、東日本はGoogleにあげるみたいな領土の問題、国の領土をどこにもってくるか。

東浩紀氏:
Googleに集まった巨大な富をどうするかという問題設定に変えるべきで、ダレが徴税するかではなく。もし日本にGoogleがあったら日本に税金を払っていると思うけれど、それは日本という土地で暴力的な関係を安定させるために払っているお金。それとは別に巨大な富は貯まっている。
その巨大な富を社会に還元させるかという仕組みを考えなきゃいけない。

川上会長:
そうであれば、日本に住んでいる人のネット圏内は日本の領土であると主張しなければいけない。領海領空とあるけれど、日本の領土を覆っているネット網内も日本の法律に従わなければいけないと主張するのは当然。

東浩紀氏:
現実的には、日本人のGoogle社員をもっと増やそう問題じゃないの? Googleの方針に影響力を及ぼす日本人を増やしていく方が直接だし、それ自体が一種の政治参加になっていくような捉え方をしたほうが良いのではないか。Googleに支配されるのが良いと言ってるわけではなく、地理的境界を持っている国民国家という装置を使ってコントロールをするのはカテゴリーが違う感じがする。
だから話に違和感を感じるのかもしれない。

川上会長:
すごく分かるんだけれど、僕はいま日本という国に感情移入しながら話をしているので。日本という国を経営するゲームと考えると、ネットも領土と考えるのが正しい。それを超えて、これから世界をどういったアーキテクチャで治めていくかを考えていくと東さんみたいな考え方もあると思う。しかし、そこまで考える前提まで世の中の人はなっていないと思う。

東浩紀氏:
なっていないと思う。これは一般意志2.0の最終章で書いている内容なので喋った。政治って何かという意味を変えるべきだと思う。一方で国家というのは水道局みたいなものになるべきで、水道は僕達の生活に絶対に必要なもので無くなったら困る。しかし普段は水道のことを意識しない。それはなぜかというと大前提であるから。
国家というのは生活の大前提の所を面倒見るものになるべきであると。その外側で文化活動やったりクリエイティビティをやったりお金を稼いだりしている。その外側で発生した富の分配システムというのはこれからは全く別の原理で考えなければいけなくなる。つまり情報もお金も物も国境を超えてしまうし、作品がどこで作られているかというのが地理的に紐つける事が難しくなってしまう訳だから。
>そんな事は無くGoogleの~ (話を遮られる)
今はそうです、今はそうですけれど。僕は原理を考えたいと言っているだけです。僕の考えでは原理的にはGoogleはどこの政府にも税金を納めるべきではないです。国境を超えたネット企業はどこの国にも税金を納めずに別の決定原理を考えるべきと長期的に考えている。今、現実にGoogleという国境を超える世界的なある種の公共企業がある時に、アメリカにだけ投下されているというのは全くその通りだと思う。
地理的にどこかのポジションにぜんぜん違う2つの原理をショートカットすることによって、お金流れや権力集中に歪みができているのが現状。その現状を前提にしてゲームをするのであれば、その歪みを利用して日本も戦略的に鎖国をするのは理解できます。
しかし、長期的に50年とかのレベルで考えるとそれは違うと思う。これからGoogleに似たようなものがどんどん出てくるときに、グローバルに流通するクリエイティビティとか、元々国境に関係無く動いているお金とかをコントロールする国境が無いシステムを編み出さないと・・・世界政府とか世界共和国というわけではないが―
例えばニコニコ動画にコメントを書いている人が、何人だとかどこの国から書いているかという事を関係無く一つのコミュニティを出現させる。そういうアドホックなコミュニティみたいなものが、政治的決定を持てるような仕組みを作って・・・というような事を考えているが全体的に夢想的な話で―

ここでタイムアップ。そして質問コーナーへ(質問内容は次の記事で。)


ここまでの内容で、理系と文系、経営者と作家、近未来と遠未来、当事者と傍観者(部分的に)。立脚地がそれぞれ違い、ポジショントーク的部分もあるかもしれませんが、「おもしろい」をセカイに広げるにはというテーマのおかげでしょうか、基本的に未来の話なので、聞いていてワクワクします。
まず、川上会長のYoutubeとのルールの違う戦いを強いられているという話について、そこからルールの抜け穴を探すのではなく直球勝負で権利者との折衝をして、JASRACやそれぞれのレコード会社と契約して使えるようにするとかしてサイト全体を健全化してきた訳ですが、その為にニコニコ動画の一つの特徴であったMAD文化という体の一部を切り落とすいう凄まじい決断をした事も、それが良いか悪いかはまた別の話ですが、強いられたルールを守りながらグローバル企業と戦う為の戦術だったと俯瞰できました。

その後のネット空間の国境について、多国籍企業とその企業が存在する国が持つ徴税権や、国境を超えたルールの違いについては、私は日本の法についてさえ疎いので感情的な話をさせて頂きますと、川上会長の言っていることには賛同できるのですが東浩紀氏がどうしてもオープンにいこうとする点が考えが理解できなかったのですが、最後に説明する「これは長期的に考えること、現時点では夢想的な話。」という意味合いでの補足があったことで、二度三度聞くことでなんとなく分かりました。しかし現状の米国最強企業が全世界のネット環境を実質支配している状況では、現状を変えていこうという提案自体が中々・・・対談の中で冗談めかして言う「Google社員になって中から変えよう」方式が一番現実的に考えられる策に思えてしまうのは悲しい。
どこに税金を納めるかはまだしも、日本から飛び出して多国籍企業と戦うときに、足かせになる法律があることで内向きとか言われるのはなんともやるせないのではないでしょうか。そうなると、話の中でも登場した、こちらから出ていくのではなく”来てもらう”方法、若しくは比較優位のあるオタクの歴史を持って戦える場を用意して勝負をすることが、ひとつの勝利の道に見えてきます。別に結果としては勝たなくても良いのですが、日本発のものとしてイニシアチブを握って世界に空間が広がる事が理想の拡大方法だと思います。
その空間はネット上においては既にニコニコ動画が存在するわけですが、「来てもらう」というリアルな場の提供、そしてそこに行ったことが、大袈裟に言うとアカデミー賞をとったような世界的価値であると世界にしらしめることが出来る― そんな場所を作るというのはちょっと面白くない?なんて夢想的な思いを私も巡らせます。
次回の質問コーナーのまとめに続き、このリアルな場と価値の創造について妄想を走らせます。

文字制限に引っかかったので2つに分けます。→ 質問コーナーと感想まとめ